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李春相のこと
(SBS=ソウル放送)

ユ・オソンの百万ドルのミステリー(韓国SBS=ソウル放送局)
<小鹿島に眠っている第二の安重根>   

―2003年10月27日(月)19:05〜20:00 放送―

(約19分)

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 全訳文                           訳・金春鎬=キム・チュンホさん(留学生)

1909年10月26日、満州哈爾濱、三発の銃声とともに朝鮮侵略の元凶伊藤博文が射殺されました。これによって日帝の蛮行を全世界に知らせ、彼らの肝を冷やした主人公はかの安重根。
それから三十余年、

「周防正季博士殉職」

再び日帝を衝撃に追い込みながら、第二の安重根と呼ばれた人がいました。

「第一の凶悪犯が安重根であれば李春相は第二の凶悪犯だ。」

1942年小鹿島(ソロクド)更生園、

「俺の包丁をくらえ。お前が死ねば我々が生きる。」

ここで園長・周防正季を包丁で刺し殺した朝鮮人李春相。
日本人には第二の安重根であった彼の名が、なぜ我々にとっては聞き慣れないものでしょうか。

  「小鹿島に眠っている第二の安重根」

李春相は、いわゆる癩病と呼ばれるハンセン病の患者でした。
日帝強占期、全国に散らばっていたハンセン病患者を脱出の難しい小鹿島に隔離することで、彼もまた6千500余人の患者たちと共にここに収容されました。
ハンセン病患者の療養や治療を助けてくれる更生園園長に、患者であった彼が、なぜ包丁を向けたのでしょうか。
全羅南道高興半島の南に位置する島、小鹿島。
美しい景観ほど平和に見えるこの島には、しかしあちこちに熾烈な生き様の痕跡が残っていました。私たちはここで事件当時の生存者の何人かと会う事ができ、彼らは今も李春相事件を生々しく記憶していました。   

イ・チョルホ(仮名、小鹿島居住)
「我々患者を苦役から解放して下さった方であり、我々を代表して死んだ方だと思います。」
ユ・ヒョンウン(仮名、小鹿島居住)
「我々患者があまりにも過酷な虐待を受けていることを見るに見かねて、彼(院長)を殺し、代わりに自分が死ねば他の患者たちは(虐待から)楽になると思い、そういうことで(院長を)殺したのです。」
彼らは一様に虐待や苦役で苦しんでいた当時を思い出しながら身震いしました。
一体、彼らにはどのような事が起こったのでしょうか。
国立小鹿島癩患者病院、日帝強占期、小鹿島更生園癩患者収容所であったここに、周防正季が第四代園長として赴任します。彼は小鹿島を世界一のハンセン病療養施設につくりあげようという大きな計画を実現するため、「院生」(患者)たちを奴隷のように扱ったといいます。

ジョン・テホ(仮名、小鹿島居住)
「いっぱいやらされたよ。朝4時から夜10まで…戦争で使うためのかます(叺)むしろの袋を織ったんだ。いっぱいかます(叺)をつくったんだ。皆手から血が出ても、一人当たりに決められた数のかます(叺)を織らなければならなかった。」

「出席がとられます。出て来なかった人は、なぐられて悲鳴が外に聞こえるほどでした。いくらやられたか…」

特に当時周防園長の右腕であった看護長佐藤(周防院長の養子)は、その蛮行が悪辣で有名だったといいます。

 

ジョン・テホ(仮名、小鹿島居住)
「佐藤が全部、事件を起こしたんだ。(大きな石をころに乗せて引っ張ってきた)100人、200人が引っ張ってきたけど、石の上に佐藤は座っていて、もし腰が少しでも曲がったりした人がいれば、足で蹴ったり、なぐったりした。石の重さに耐えられない人を…」

結局、小鹿島の諸般施設や美しい景観は、自分の体でさえ支えることの難しかった患者たちによって完成されたのです。彼らが患者たちの労役の動員に血眼になった理由はまだありました。それは戦時の軍需物資を調達することでした。

「軍需物資を造るのだと話した。松根油も軍需物資の一つであり、かますを織らされたのも、そうしてつくったかますを戦場で砂などを入れて使おうとするためだ。」

「このように松に傷を付けて、真ん中を通して、この下から松脂を取るのです。」

*松根油:松から抽出した油を日帝時代、航空機の燃料として使った。

当時の実像を裏付けているように、今でも小鹿島には損なわれていない松があまり見つかりません。
ますます残酷になるばかりの強制労役に耐えられず、亡くなる人もだんだん増えていき、その上戦時体制が持続され、食料の配給も少なくなり、患者たちは飢えとも戦わなければならなかったのです。

「飢えに耐えられず、逃げる人もいた。捕まれば監禁室に入れられた。監禁室は12部屋で、一つは<水の部屋>だった。その部屋に水を30cm程度入れると、水が漏れない。12月にその部屋に(捕まえられた人を)入れておく。そうすると凍り付いて死ぬ。」

捕まり監禁室に入れられた人は、全部断種手術を強制に受けられなければならなかったし、大体の人が残酷な拷問の末死んだり、不具の身になって出てきたといいます。

*断種台:子孫を生めないよう断種手術を受ける台。

このように基本的な人権さえ蹂躙されたまま、自殺した人もいたそうです。そしてそのように亡くなった人々は、死体までも人体解剖室の冷たい解剖台の上で徹底に蹂躙されたといいます。

ジョン・グンシク(ソウル大学史学科教授、小鹿島歴史研究者)
「1940年から(周防園長在任時)に小鹿島において死亡率が急激に高くなります。それほど患者たちへの処遇が悪かったのが1940年前後の状況です。」

しかし、このような状況にもかかわらず日帝はあっけなく周防園長を<癩患者の父>だと称しながら彼を美化し始めます。

 

<文化朝鮮、1942年5月10日>
・彼の表情は不幸な人たちに限りない愛情を注ぐ聖者に近い。
・彼は病勢がひどい患者にも手袋もつけずに素手で治療した。
・互いに愛する患者たちには、自ら司識者を務め、結婚して一緒に住めるようにした。

「(園長)自ら素手で患者を治療したり、患者同士の結婚式で司識者を務めたりしたと…」

「そんなことは一切ありません。そんなことはありません。園長ははるか遠い存在で、(患者は)会うこともできませんでした。何故ならば、園長はいつも車で通い、歩いて通ったことがありません。園長と会うなんて、それは嘘です。誰がそんな嘘を話したが分かりませんが、そんなことは一切ありませんでした。」

甚だしくは、患者たちの労役で生きている園長の銅像までも造るに至りました。そうするうちに怒りが極に達したある患者の刃物で最後の審判を受けるようになります。
1942年6月20日、この日は3千余の患者や職員たちが園長の銅像に参拝する日(定例報恩感謝の日:毎月20日は、小鹿島更生園の患者や職員たちが院長の銅像に参拝する日)でした。周防園長が自分の車から降り、整列している患者の間を通り歩いていったとき、にわかにある青年が胸から何かを出して院長に襲い掛かります。

「我々の怨讐、俺の包丁をくらえ、お前が死ねば我々が生きる」

李春相の包丁に刺された周防園長は、その日に息を引きとりました。日本福祉厚生の最高の権威者として、皇室の厚い寵愛を集めていた彼の死は、伊藤博文に比肩されるほど、日本人には大きな衝撃でした。
この事件があった後、小鹿島にも多くの変化がありました。

ユン・ソンヒ(仮名、小鹿島居住)
「私が小鹿島に始めて来たときに、包丁の先がなかったんです。人を刺し殺したといって、包丁の先をなくしてから使っていました。」

その後から小鹿島では、しばらくの間、誰もが包丁の先をなくしてから使わなければならなかったといいます。

 

イ・チョルホ(仮名、小鹿島居住)
「そうしたとして、労役がなくなったわけではないが、それほどひどいことはやらせてなかったんです。(日本人の職員たちが)あまりにもひどいことを患者たちにやらせたからそのような事件がおきたと思います。」

そのためか、日本の言論はこの事件を、ある凶悪犯の患者の偶発的な事件として追い立てて行きました。

「犯人はもともと凶悪でよく不平を並べ、疑わしい行動をしていた不良な人として…」

そして李春相はその場で逮捕され、三審を経て死刑を言渡され、テグ刑務所で27歳の短い人生を終えます。

「1943年2月19日死刑執行」

日帝治下の言論が李春相をもともと凶悪な人として描写した意図くらいは、推測し難いことではありません。しかし、一つ興味深いことがありました。それは彼の前科記録でした。当時の証人たちによれば、それが彼の過去の独立運動経歴との連関があるということです。取材途中我々は、李春相の行跡を数年間研究してきたある教授と会うことができました。
そして、彼から当時の裁判記録に記されている興味深い事実を聞くことができました。

キム・ムンギル(釜山外国語大学日本語学科教授)
「1939年5月12日、京城地方裁判所で、窃盗及び贓物取得罪で、懲役1年、罰金50円に処する」

「どんな物を盗み、取得したことは書かれず、他人の物を違法で取扱った(窃盗)と記されています。」

李春相が小鹿島に行く前に、窃盗及び贓物取得罪で懲役を受けたことがあるということでした。

ジョン・グンシク(ソウル大学史学科教授、小鹿島歴史研究者)
「周防院長を殺した人はもとより犯罪者であるという否定的な側面をあらわす必要がありました。そういう点から考えると裁判記録に記されている李春相の犯罪履歴などの個人記録は100%信頼できないと思いますが」

それでは、彼はなぜこうした前科記録を持つようになったのでしょうか。もう少しこの部分を詳しく調べるために私たちは小鹿島国立病院の資料室をたずねました。そこで小鹿島の過去七十年に関する記録を探すことができましたが、その記録から意外な事実が分かりました。

「満州で馬敵の生活もした。思想関係の犯罪で‥‥」

そして李春相と親しかったというある老人とあって、その事実を確認することができました。

 

ジョン・テホ(仮名、小鹿島居住)
「刑務所から出た人だ。李春相はもともと思想犯として刑務所から出た人だ。ブロック三枚を素手で撃破したことがある。なぜそういうことができるかと聞いてみたが、満州で馬敵団の生活もしたと言った。」

「李春相氏が直接言いましたか? 自分が馬敵の…」

「彼が直接話したことだ。彼自身が馬敵の生活をしたことがあるといいながら、歩き方もこういう風に歩いたりした。」

1930年代満州で馬敵の生活をした人の中には独立運動に関わる仕事をした人が多くあるのだそうです。そうしたら李春相ももしかしたら独立運動に関わった仕事をしたのではないでしょうか。
私たちは李春相の遺族を探し訪ねてみようと決めました。彼の戸籍を調べてみた結果、現在生きている可能性の一番高かった人は、彼の姪でした。その人と会うため、戸籍の住所をたずねましたが、残念ながら亡くなっており、彼の一族の大半が死亡したことが分かりました。ですが、幸いに、彼の五親等(親族)と会うことができました。

李○○(李春相の五親等の甥)
「従祖父であるスボン(李春相の父)は、独立運動資金を金昌淑(キム・チャンシュク、独立運動家)に提供したこともあり、中国の上海にあった臨時政府に独立資金を持って二回行ってきたと亡くなった私の母から聞きました。従祖父が日帝警察に捕まらないよう苦労したと聞きました。」

彼の話を通して私たちは李春相の父上の独立活動を確認することができましたが、李春相の行跡については明かにすることができませんでした。

「族譜はどうなっていますか。李春相の名前は載っていますか。」

「いいえ、載っていません。スボン(李春相の父)の下には、ハンシクという名前だけです。一人息子となっています。」

結局、李春相がある形で独立活動に参加したという状況はつかむことができましたが、それを裏づける客観的な証言や物証は探すことができませんでした。
李春相の行跡を探りながら私たちが感じたことは、彼が実際にしたことに比べ、残された行跡があまりにも微々であるということです。日本人にとって大きな衝撃であった彼の存在が、解放を向かえて半世紀が過ぎた今も、なぜ私たちにはあまり知られていないのでしょうか。
まず、取材が進む中で分かってきたこととして、この事件について当時の日帝によってかなり歪曲されて伝えてきていることです。

「高橋という報道課長がいました。日本人です。"(彼が)皆さん、園長父上を殺した人は狂人です"といいました。」

「周防園長を殺そうとしたのではなく、佐藤(看護長)を殺そうとしてのだが、偶発的に周防院長を殺してしまったという話が小鹿島全体に広がったのです。」

「報道には、この人(李春相)が精神異常の人だと出ました。しかし彼は精神異常者じゃないです。」

このように日帝はこの事件を精神異常者の偶発的な暴行くらいに歪曲しようとしたのです。これで李春相の大きな志や彼らの蛮行を隠そうとしたことでしょう。しかし、なによりも李春相はこの事件を前から厳密に計画し、準備して来たのです。

ジョン・テホ(仮名、小鹿島居住)
「演劇がありました。院長の銅像除幕式のとき、(演劇の中で)剣舞を舞う役がありましたが、その役を自分(李春相)がすると頼んだんです。それが決まり、彼は電信柱を包丁で刺したりしました。何をしているかと聞くと演劇の練習をしていると話した。自分なりに(事件の)練習をしていたのです。」

より興味深いことは、彼が(事件の日を)報恩感謝の日を選んだことです。それは数千人の前で、日帝と周防園長の政策を正面から否定しようとしたためではないでしょうか。なによりも事件当時の彼の毅然とした態度から彼の覚悟を推し量ることができると思います。

「そこで彼は、周防園長を刺したあと、逃げようともせず、その場で包丁を握っていた手を上げ、両足を伸ばして10分くらいそのまま立っていました。」

結局、彼は死を覚悟してこの事件を起こしたのです。ところで彼が私たちの記憶から忘れられてきた理由は日帝だけのせいでしょうか。

キム・ムンギル(釜山外国語大学日本語学科教授)
「1. 外部の人が小鹿島内部のことを知ろうともしないし、出入が難しかったこと」
「2.ハンセン病患者自らすべてを隠そうとする傾向があること」

この問題に関連して私たちは、さる(数)十年間小鹿島問題に興味を持って来たある日本人学者と会いました。
彼は我々の取材要請に、直接韓国まで来て応じてくれました。まず、日本人を殺した李春相をどのように考えているかをたずねました。

滝尾英二(たきお・えいじ 近代史研究者)
「同じ民族を抹殺する犯人を安重根が哈爾濱(ハルピン)で殺したように、李春相は日帝下で絶対権力を持っていた一支配者の残酷さを社会に知らせようとした点から、とっても立派な方だと思います。同胞のために命をかけた二人の行動は、非常に似ています。そういう点で李春相を第二の安重根であると思います。」

それでは、李春相事件に対して彼が提示する解法は何でしょうか。

「まず、日本政府が李春相の遺族に謝罪しなければならないと思います。そして李春相が迫害されていた同胞のために身を捨て、9ヶ月後に死刑を受けたことを日本と韓国に広く知らせるべきだと思います。」

小鹿島の中で眠っていた彼の存在を、今でも外に出して再照明するべきだということです。しかし実際に李春相の遺族の反応は冷淡でありました。

「公開的に出て、李春相という方について(真相を)明かすことについては…」

「そういうことは、今はちょっと厄介なことです。広く家門から見ればいいことだけど、現実的にはそれがそれほど簡単な問題ではありません。直接血縁関係にある人には機嫌を損ねることになるかも知れないし、特に姻戚には…そうじゃないですか。」

私たちが超えなければならない壁はまた高いものでした。

イ・セウン(<小鹿島を愛する人たち>運営委員)
「我々ハンセン病患者たちが、国家観や民族愛もしっかり持っている。そういうことを言いたいのです。そして基本的にハンセン病患者に対する社会の偏見や差別意識が早くなくなればと思います。」

李春相、彼が起こしたことが義挙であったか、あるいは独立活動であったかについては、より綿密な検討が行わなければならないと思います。しかしそれよりもまず私たちが忘れてはならないことがあります。
李春相、彼が私たちの記憶の中で忘れられた存在であったことは、ハンセン病を患った他の人びとと同様に、私たちの偏見と差別のせいであることです。


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